今も各地に残る打ち刃物製造技術は、日本最大の内戦である「応仁の乱」の戦禍を遁れた京の技術者達が日本各地に根付いて、釣具、農具をふくめた打ち刃物全般を製造していた・・・
有名処の秋田、播州、土佐、加賀だけでなく地元の新潟・長野の県境、信濃町打ち刃物(当初は砂鉄から刃物鋼を製造)も伝承は落人伝説と共に有る、そこからほど近い、新潟の高田には名工で誉れ高い「つんぼ」さんがいらっしゃる、例え名工でも個人商店のためその地域だけで使われ、有名処にはならなかった製造元も多い、同じような事が全国各地で有ったのだろう・・・(今もですけどね)
固有名詞として「つんぼ」ですから
聞きかじりなので良く判りませんが三代続くその、つんぼ作の斧やら鉈やら菜切り包丁、大工道具等は長野市内の金物屋でも扱っていたと聞く、実際に在庫品の中から数多く出てきてもいるらしい・・・
全てにつんぼの打刻が有るわけでも無いし、初代作は打刻無しも多い、高祖父の焼印が押されたこの鉈も、つんぼ作の特徴が有るらしいけど今でも道具として使い続けています
手間暇かけた当時の鉄刃物の中でも建築用金具の折れず粘り強い「和釘」は今でも貴重品として重宝されていますし、今や旧来の打ち刃物と共にコレクターズ・アイテムとなってしまいました
打ち刃物の一大変革として安来鉄鋼合資会社製造の安来鋼が誕生し、打ち刃物鋼は工業規格として均一化され安定した品質で大量生産が可能となったのですが同じ事が釣針に使われる鋼材にも有りました
それが工業規格で作られた「ピアノ鋼線」の誕生・・・1800年代後半、普及
海外からの(スウェーデン鋼等)輸入のみであったピアノ鋼線が1941年に日本で生産され、日本産業規格品となる
各製造所独自の技術で作られた釣針がピアノ鋼線を得た事で、製造量の確保が出来たのと同時に他所との違いの明確化が行われ、それこそ百花繚乱の時代だったのだろうと・・・今に続く製造元も有るけれどそれ以上に、今は亡き製造元の方が多い
播州を生まれ元とし岐阜に本拠地を定めた「重兵衛針」が製造していた「新アマゴ針」はそのまま、他社で「長良型」とか「アマゴ針」として製造されていたり、土佐の「丹吉針」も同じく「丹吉型」として・・・
安定した品質で供給されるピアノ鋼線の存在は、古来の鈎型の更なる洗練に繋がったと当時のピアノ鋼線製釣針を見ていると感じます・・・
釣針への各製造元の加工技術の違いもハッキリと感じますし、却って同じ素材で同じ型を作られていたからこそ考え方の違いとか鈎型の拘りが現れるのかもしれません
「一本選り」と書かれていても袋から一旦出して全てを捻り、焼きの甘さや焼き過ぎた鈎を除くなんてごく普通の確認作業は付物でしたけど・・・(笑)
一部だけの有識者で作られる今の釣針と、時代を経て釣人達の選択により残った釣針とどちらがと考えれば、針先一つとってもこのピアノ鋼線製釣針時代が堪らなく好きです
釣針と打ち刃物を同一視するのも無理が有り過ぎますが安来鋼を得て生産量を確保し林野庁御用達となり全国区となった打ち刃物メーカー製造品は各地の営林署の現場で使い勝手が些か不評、でも時代を経て、その製品しか無くなると、旧来愛され地域に根付いた地域独自の道具其の物や、その使い勝手の良さすら忘れられるという現実は釣針にもあるように感じます
パッケージから出してしまうと、どこの国のどのメーカーすら判らなくなると感じる今の機械製造の釣り針は計算上、昔の釣針より優れてはいるのでしょうが毛鉤を巻き付ける釣針は、今となればフライフックも含めて趣味の世界のものですから、それこそ手に入る、今のうちではと・・・(笑)
世界に顧客が広がった丹吉鈎はハワイに移住された方が使っているのを見た、現地の方々の好評を得てなんて逸話を聞くと・・・
地域で使われた伝統的な毛鉤も、その地で信頼された釣針が有ってこそと・・・