汎用性が高く、水中でホバー状態となるので扱い方による自由度が高い・・・二重蓑毛、二重巻き毛鉤
フロントハックルはブラウンパートリッジ、セカンドハックルはコックネック
英国パターンの初期型ドライフライ、マーチブラウンを少しソフトハックルフライに近づけた毛鉤
マーチブラウンは、サーモンフライからウェットフライ、勿論ドライフライにここではテンカラバージョン迄という・・・・(笑)
非常に汎用性が高い色で纏め上げられているのは山岳渓流でも使い易く、黒胴に銀線荒巻き、ブラックぺネルタイプまでこの二重蓑毛式にするとほぼ、万能型
元々、ドライフライですからフライドラヤーキャストとかフォルスキャストで毛鉤の水気を飛ばせば、テンカラでポイント表面を狙う場合の、3m程度なら沈みにくいし、その後、落ち込みに飲まれて沈んでも渓魚を惹きつける力が有ります
前記事をご覧いただければ、それこそ沢山のバリエーションが出てまいります
十数年前の話ですけど「テンカラはマタギから」と言う説が席巻しておりまして、海外に広まりつつあった「TENKARA愛好家」がその説を信じて秋山郷まで来ていた事が有りました
当時、海外の出来上がりつつあったその「テンカラフォーラム」に参加しておりましたので、その説は些か史実と違うと意見を述べたところ猛反発を頂きました
そこで初めて「テンカラ純粋主義者」の存在を知ったのですが新興宗教団体の様と言えば、語弊があるかもしれませんけど、「師と仰ぐテンカラマスターの教えに間違いは無い」から始まり、ここで田舎の素人がとか、FF釣法も知らないくせに等とそれはそれは猛反発・・・
「テンカラ」の言葉が取り上げられたのは木曽地域に、元々ある釣りの名前から「全国各地の毛鉤釣りを総称して、以後、テンカラ釣りとする」としたのが始まりと説明していたのですがご理解が得られず、熱心な方とは、夜から始まり翌朝まで、一旦休憩して又、夜までチャット討論・・・(笑)
・・・てんからと名付けられた釣り方法は場所により「テンガラ」も有ります
日本海側各地で行われていた釣法である元々の「てんから」の名称が、釣針製造を奨励し鮎毛鉤製造で有名になった加賀藩から木曽に伝わったと考える方がごく自然の成り行き
加賀藩の参勤交代は木曽路にあり、その街道筋には加賀藩からの寄進も数々有ったほど・・・木曽に突然「テンカラ」の言葉が生まれたとは都合よすぎます(笑)
「テンカラ」の名を全国区にした方は、「撥蛇」と言われていた地域名称の蛇を「ツチノコ」と名付けて全国区にした方ですからね・・・(笑)
その言葉を基に、「テンカラ」は関西方面から全国区になるわけですけど当初は「カゲロウの釣り」でしたよね
いつの間にやら、それが「マタギ」に変わり、つい最近まで造語の「職漁師」、今はどうなったのでしょう
席巻していた「マタギ」はいつの間にやら、どこに行ってしまったのでしょうね、今も信じている方がいらっしゃるのかしら?
その当時、マタギ衆は集団狩猟が主で渓魚を獲るにもヤス・網等を主に使っていたとか、話の出処である秋山郷集落に、婿に入ったマタギ衆も確かに居たけれど天明の飢饉に始まり、其の三年後の飢饉により秋山郷集落の前身である大秋山集落は、集落そのものが壊滅し新たな入居者により今の秋山郷集落が始まった等、文化史、地方史にもその記述があると説明したのですけど「田舎の素人」の話は最後までご理解いただけませんでした
マタギ衆が諸国往来を認められていたのはタテと矛の時代まで、その後の越境狩猟となれば今と同じく、数々の制約が伴う
その他、山間部で生きていたのは木地屋集団に関西方面のサンガ集団、その前には落人、ただその方々を受け入れる各地の元々の集落がなければ生きていくことすらままならない
釣針製造は京の都から、応仁の乱でその職人が安住の里を求めて各地に生き延びそこで文化が広まった、そこには公家文化で楽しまれた「遊猟の釣り」である毛鉤で魚を釣る文化も伴ったと考えるのが自然なんですけどね
山で生きていくその知恵とか手段方法等、それも他地域のその情報を伝播する役割はその「マタギ衆」が大きな役割を持っていた事は確かなこと、でもそれ以上に各地に住む者同士の「山間通信」はそれ以上の役割を果たしていたと思われるし行商人等の情報は伴う商品によってもっと実利的であったと思うのです
・・・毛鉤は京の都から全国に広まった、その毛鉤は蚊頭針に在るなんてね笑)
「田舎の素人」の件は確かにそうですから否定も出来ないのですが、好きな「FF釣法」まで知らないくせにと言われたのが悔しくて・・・
でも「その師と仰ぐテンカラマスター様はFF釣法を嗜しまれていらっしゃったかしら」と言えない自分の語学力の無さが情けない・・・(笑)